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大阪名所旧跡箸休め・北部編 |
| 大人の旅心にお応えする「旅と食の情報誌」 |
>HOME >大阪名所旧跡箸休め・北部編 大阪平野には2つの大きな川が流れており、その川で仕切られた地域に名前がついています。淀川からの北方面を「摂津」、淀川と大和川(やまとがわ)の間を「河内」そして、大和川の南方面が「泉州」と呼ばれております。縮めて「摂河泉(せっかせん)」とも呼ばれています。 大阪府下の名所・旧跡となれば当然、歴史に関わるようなところとか、神社・仏閣になります。江戸時代後期に刊行された、「摂津名所図会」(九巻十二冊)という「摂津国」の全域にわたる絵入りの地誌があります。今でいう観光ガイドブックです。 内容は、名所旧跡から当時の風俗・行事・その地域にまつわる説話・伝説や物語などが詳細な絵図とともに、絵解き解説されています。この本は江戸後期から明治期に至るまでベストセラーとの評判でした。皆さんも一度は、書店で口語訳本を読まれたことはおありでしょう。 当時の「摂津の国」は、現在の行政区分でいえば、大阪府の北部から兵庫県の南東部にかけての地域です。これから紹介する地域は、この本での「北摂(ほくせつ)」の部分ですが、現在の「摂津」にはどんな町があるかといいますと、摂津市、吹田市、豊中市、池田市、箕面市、豊能町、能勢町、茨木市、高槻市、三島郡島本町などにあたります。 それでは管理人の「摂津名所図会」に関する名所・旧跡のサワリをレポートいたしましょう。 ここをクリックすると拡大地図を表示します 拡大地図を表示 青ピン.高槻城跡周辺 ■万博公園周辺 所在地:大阪府吹田市千里万博公園 交通アクセスマップはこちら 万博記念公園(ばんぱくきねんこうえん)は日本万国博覧会(大阪万博)の跡地を整備した公園で、一般的に「万博公園」と呼ばれています。正式名称は、日本万国博覧会記念公園。大阪の中心部から約15キロ北方にあり、広大な公園には広場やスポーツ施設や文化施設があり、市民に親しまれています。総敷地面積は264ヘクタールに及び、甲子園球場の約65倍の広さに相当するそうです。 このときの呼び物は、なんといってもアポロ11号が持ち帰った「月の石」。展示したアメリカ館の行列は延々続き、途中であきらめました。このときからなんでも並ぶのが流行りましたね。 万博公園内にはたくさんの施設があります。そのうちの文化施設「国立民族学博物館」と、「大阪日本民芸館」をご紹介しましょう。 ■国立民族学博物館 音読みでみんぞくがく≠ニいうと、民族学≠ニ民俗学≠ニがあります。辞書で引きますと、民族学は「諸民族の文化の特質を歴史的に、あるいは他文化と比較して研究する学問。」とあり、民俗学は「民間伝承の調査を通して、主として一般庶民の生活・文化の発展の歴史を研究する学問。」とあります。 この博物館は前者のほうなので、民族資料・衣装や楽器などがたくさんあります。 通常の博物館・美術館と異なるところは、展示品がガラスケースの中に入っていないことです。むきだしのままです。 つまり、触れることが出来るということです。展示品の生活用具が大きいのでケースに収納しきれないという点があげられます。世界各地の生活用具の中で、インドネシアのガムラン音楽の楽器に触れて音を出してみました。適当な音階ですがちょっとバリ島の雰囲気に浸りました。 オセアニアから始まり、東周りで地球を一周することができます。実際にさわることのできる資料がたくさんあり、さまざまな民族の生気が伝わってきます。 入口に大きなオランダ製の手回しオルガンの演奏にトライしましたが、ハンドルが重く回すのに懸命。たった2分間で見学の若者と選手交代となりました。 因みにこの建物の設計は、黒川紀章氏です。 日本万国博覧会記念機構のWebサイトはこちら ![]() ![]() ■大阪日本民芸館 この館は、1970年の万博のパビリオンとして出展した後を受け継いでいます。個人企業として出展しなかった日本生命他17社が後援して、「民芸」というものを日本や世界の人に知ってもらおう、ということが設立の目的でした。 当時は万博民芸館といい、創始者・柳宗悦(やなぎそうえつ)の民芸(日本的民主工芸品)運動の流れを汲んでいます。 今回の出品で目を引いたのは、「厨子甕(ずしがめ」(=沖縄ではジーシーガミという)、一種の骨壷である。立派な骨壷で、基本的にはひとり、もしくは夫婦の骨を納める甕(かめ)である。 かって沖縄には死者をいったん葬ったあと数年を経て遺骨を取り出し、骨を洗い清め、特色ある骨壷に納めて墓室の奥深くに安置する洗骨(せんこつ)という風習があり、この骨壷が厨子甕である。 柳氏の方針で、展示方法には説明が殆んど無く(作品名と作者名が表示してあるのみ)ただ作品を見てくれと、余分な説明=先入観を入れずに、人それぞれの審美眼によることを旨とする、らしい。 素人には作品ごとのキャプションや説明書きがあった方がよいと思う。 しかし柳氏の考えを踏襲し、いまでも変更しないとのことであった。 大阪日本民芸館のWebサイトはこちら 壁面の棟方志功の作品 厨子甕
(注:以上の記述は平成17年6月「博物館学芸員科目等履修生」時の見学レポートを参考としています) ■能勢 一の鳥居 阪急宝塚線の川西能勢口で乗り換え、能勢電鉄・妙見線で7つ目に「一の鳥居駅」があります。この駅からお城が見えます。まるで、大阪城の天守閣のようです。それもそのはずで、大阪城天守閣の3分の2の大きさである。 このお城は、大阪青山短期大学 北摂キャンパスの一角にある「歴史文学博物館」で、外観は四層の城郭型式となっている。 管理人は主にこのお城の中の教室で「博物館学芸員等履修生」として、約一年間学んだ。動機は、博物館・美術館巡りを趣味としていたが、海外ツアー参加者がここで学習していたのがきっかけであった。博物館の仕事の一環を垣間見たいというのが本音であった。 ご興味のある方は、ぜひこのサイトから情報を入手していただきたい。生涯学習としてもお薦めします。また、今後の博物館・美術館巡りのときの作品の観点が確実に変わりますよ。 当時の懐かしい履修生ブログです ⇒ 「目指せキュレーター60代からの挑戦」 とは勇ましい、知らんもんほど強い(笑)。 ![]() 大阪青山歴史文学館のWebサイトはこちら ■呉服神社〜五月山公園〜池田城跡公園〜逸翁美術館 池田といえば、皆さんは落語「池田の猪買い」はご存知ですか? ・・・淀屋橋といぅ橋があるなぁ。淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を三つ渡る。お初天神の西門のところに「紅う」という寿司屋がある。この寿司屋の看板が目印やなぁ。こっからズ〜ッと北へ一本道じゃ。十三の渡し、三国の渡しと渡しを二つ越える。服部の天神さんを横手に見て、岡町から池田じゃ・・・ と、昔は歩きしか無かったのですが、今ではR176や阪神高速池田線で一っ飛びです。 池田は少し山へ入って、五月山あたりからの眺めはいい気分です。 今回はハイキングレポートです。地図や写真・映像を取り入れてご案内します。 拡大地図を表示 A.呉服神社 B.インスタントラーメン発明記念館 C.五月山公園 C.愛宕神社 D.池田城跡公園 E.逸翁美術館 ■呉服神社(くれはじんじゃ) 阪急電鉄・宝塚線池田駅を降りて高架沿いに行くと呉服神社の大鳥居に出る。くぐって住宅街を通ると呉服神社がある。池田の古い名の「呉服クレハの里」のゆかりの神社。 その昔、中国・呉の国から機織りの技術者を呼びこの地で日本初の衣服を伝えた。その技術者、呉服大神を祀ってある。 ![]() 呉服神社から閑静な住宅街室町(むろまち)は、阪急電鉄が開発した日本初の分譲住宅地だ。池田保健所を目指して歩き、角を右に折れると綺麗に舗装されたのが「めんロード」。その先には「インスタントラーメン記念館」がある。 ■インスタントラーメン発明記念館 インスタントラーメンを発明した日清食品の創業者、安藤百福(アンドウ モモフク)氏を顕彰する記念博物館である。入場無料で入ると、昭和30年代の氏の研究小屋があり、発明当時の仕事部屋が再現されていて、安藤氏の情熱が伝わってくる。 ![]() ![]() 「マイカップヌードル・ファクトリー」では、有料で(税込み300円)スープの種類や各種トッピングを自分で選択して、シュリンク包装までなされたオリジナルのカップヌードルを作るコーナーがあり、家族そろって楽しめる。 また、予約制だがインスタントラーメン手作り体験コーナーが2階にある。展示品を見たり、実習コーナーで半日たっぷり楽しめる。宇宙用ラーメンの開発プロセスが放映されている。次回は是非ヌードルファクトリーに参加しよう。 Webサイトはこちら ■五月山公園 「めんロード」を戻り、阪急電鉄の高架をくぐり、まっすぐ北に向かう。池田城跡公園は帰りに寄ることにして山の手へ向かう。標識や看板が多くあり、始めてのハイカーにも優しい。 坂道を上がると、五月山公園の入り口だ。看板には7つのハイキングコースがあり、池田の町を見下ろせる展望台「秀望台(シュウボウダイ)」へは「大文字コース」を登ることに。 (池田のアイドル、ウォンバット(コアラの仲間)のいる五月山動物園も近くにあります。) ![]() ■愛宕神社 途中写真を撮ったり休んだりの小一時間程で展望台到着。ここからさらに15分ほど上がると「がんがら火祭り」の「愛宕神社」に出る。毎年8月24日、同神社の松明を灯して鐘を打ち鳴らし池田の町を練り歩く神事。境内には祭りのシンボルの松明が飾られていた。 社務所で火難除けの御札をもらい昼食休憩とする。 ![]() ![]() ![]() 食事も終わり下山することに。途中の風力発電装置付近で傘を差してのバードウォッチャーと会う。なんでも、鷹とかノスリの渡りをウォッチングとのこと。「日長一日、こないしてまんねん」。暑くもなく寒くもなく、穏やかな秋風に吹かれて、こんなんもええなあ・・・。 ■池田城跡公園 山から下りると左に五月山体育館。その横の橋にかかったアーチを通って公園に入る。池田市観光協会のWebサイトによると、「・・・池田城は室町時代から戦国時代にかけて、池田市域一帯を支配していた地方豪族・池田氏の居城・・・」とある。 ![]() ![]() 立派な木の橋を渡って入城。公園内は日本庭園。子供連れがのんびりと秋の日差しを浴びて寛いでいる。早速、櫓風展望台に登ってみる。高齢者や障害者用に階段に電動イスがついていてバリアフリー化。展望台からはビッグハープや五月山が望め、庭園も美しい。しばしの殿様気分。さてそろそろ今日のハイキングも終わりに近づいた。最後は、近くの「逸翁美術館」へ行くことにする。 ■逸翁美術館 阪急電鉄の創始者である小林一三(コバヤシ イチゾウ)氏の旧邸・雅俗山荘を改装して氏所蔵のコレクションを展示した美術館。ご存知「逸翁」は氏の雅号。愛用の茶道具、東洋・西洋の陶磁器類が並ぶ。今回は、開館50周年の特別記念展であった。シニア割引有り。 ![]() 第一室正面の、継色紙「あまつかぜ」伝小野道風をはじめ、重要文化財・重要美術品が所狭しと展示。よく目にする有名な胡坐をかく豊臣秀吉画像(狩野光信筆・重文)がある。表装下部に「これでよろしいでしょうか?」との伺いが付してあった。興味のある作品に、重文・「奥の細道画巻 旅立」与謝蕪村筆がある。彼、蕪村は芭蕉を深く敬愛していた、とキャプションにあり。巻子本の書体が独特で、読解できない管理人には一種のアートだ。 「お知らせ」 逸翁美術館は、近くに新美術館を建設・移転するため来年4月1日より、2009年秋迄休館の予定です。 逸翁美術館のWebサイトはこちら
■番外編 今日は10月の第2日曜日。御堂筋パレードの日でした。時間的にはもう終わっているかもしれませんが、梅田から淀屋橋方面へ歩いてみました。 清掃車が待機しており、遅かりし由良の介〜≠ニ思いきや、写真の通り少しだけ見物できました。右の清掃車の写真をクリックしてください。少しだけパレードが見れます。 ![]() ![]() ■高槻城跡周辺 京都と大阪の中心に位置する高槻(タカツキ)は、両都市を結ぶルートの拠点であり、城下町として栄え、戦国時代末期にはキリシタン大名の高山右近(タカヤマウコン)が城主となりキリスト教を広めた。同市は史跡などの文化遺産を大切に保存している町です。 拡大地図を表示 A.カトリック高槻教会 B.野見神社 C.しろあと歴史館 E.高槻城跡 F.城跡公園 ■カトリック高槻教会 阪急電鉄・京都線の高槻市駅下車。梅田方面へ少し歩くと商店街の城北(じょうほく)通りに出る。通りを抜けて南に進むと閑静な道が開け、ほどなくして右手に美しい教会の大聖堂が見える。 天正元年(1573)から12年間、高槻城主を務めた高山右近は戦国時代末期にキリストの教えを説いたキリシタン大名。右近は徳川家康のキリシタン弾圧によりフィリピンのマニラに追放され死去する。この教会はマニラ郊外にある大聖堂を模して設計された。 厳粛なミサの時間かとおそるおそる扉を開けると、ヨーロッパの教会を思わせる雰囲気があり、一人のご婦人が礼拝されていた。しばらく訪れていない外国をふと思い出す。 敷地内には、高山右近に関するもの多々あり。 ![]() ■野見神社 神社と教会の間に「高槻現代劇場」という市民ホールがある。市民会館と文化ホールの2つの建物を合わせて「高槻現代劇場」と総称。市民文化の拠点としてコンサート、講演会などを提供している。 Webサイトはこちら 神社と教会の間に位置し折り合いがついてよろしい。本殿は最近改装された模様。お賽銭箱を寄進した日付から平成15年?らしい。本殿には早いめの「七五三参り」の儀式中か?子供は退屈してか、足をバタつかせていた。 ![]() 境内に野見神社の摂社「永井神社」があり、右近の後に城主を務めた永井氏の霊を祀る。次に行く「しろあと歴史館」には、永井家に関する資料が多く展示されてある。右近はせいぜい12年だが、永井家は幕末(廃藩置県の1871年)までの為政者だったのでもっともだ。 ■高槻市立しろあと歴史館(常設展は無料です) 南に下がるとグランド沿いに「しろあと歴史館」がある。平成15年春にオープンした新しい博物館。江戸時代の高槻を5つのコーナー(高槻城と人・城下町のくらし・西国街道と芥川宿・淀川と舟運・人々のなりわいといとなみ )にわけ展示されている。 いろんな仕掛けがあって、管理人は特別展も含めて約2時間楽しませてもらった。 入り口には実際の敷石を使ったお城の基礎部分がガラス張りの床から見られる仕掛け。地中に太い丸太を組みその上に基礎石を敷設してあり、丸太の端に反りをいれ横揺れ防止としてある。 案内ボランティアがいて、申し込めばいつでもOKだ。ジオラマはいつ見ても楽しい。10分弱のストーリーで、内容は以下の通り。 時代は元禄年間(1690年ごろ)で、場所は高槻・芥川宿。俳人・松尾芭蕉と弟子の宝井其角が元禄時代の高槻を大仰な芝居で紹介する。 お題は「けさたんとのめやあやめのとんたさけ」という回文俳句(上から読んでも下から読んでも同じ俳句)。富田は池田と並んで摂津では酒どころであった。 「くらわんか舟」の模型が展示してあった。江戸時代、淀川の三十石船相手に飲食物を売っていた枚方地方の小舟のことである。 余談であるが、上方落語の演題に「三十石」というのがある。六代目笑福亭松鶴の得意ネタで、自身も酒豪であった。「ひとり酒盛り」のしらふ≠ゥら徐々に酔っていく様は彼ならではの演技。
特別展は「三好長慶(みよしながよし)の時代」である。長慶は阿波(徳島県)の国を本拠としていたが畿内に進出し、高槻を拠点にして畿内8カ国を支配したが、晩年は松永久秀に実権を奪われた。 この当時の支配者三好家の古文書類が数多く展示されている。高槻の町や村が形づくられたのはこの時代であり、村々は長慶の古文書を「由緒」として大切に守ってきた。 高槻の歴史はこの歴史館で全て分かるようになっている。 しろあと歴史館のWebサイトはこちら ■高槻城跡 1871年(明治4年)の廃藩置県により廃城となり、お城は売却か取壊しの運命に。当時のお金で五拾数円(?)で競売するも買い手つかずであった。1874年(明治7年)に、「工兵第4連隊」誘致のため破却となり、石垣に使われていた城石は京阪間の鉄道建設用に供せられた。 ![]() ![]() ■城跡公園 入り口には高山右近像が雄々しく立っおり、園内には緑の樹木も多く、池や堀に見立てた石垣などが造られて、市民の憩いの場となっている。時分時を過ぎているので、公園内の東屋で昼食とする。 園内にある建物は江戸時代の旧笹井家住宅で、「高槻市歴史民俗資料館」として公開している。伝統工芸や民俗資料が展示してある。館内ではボランティアによる教材作りの真っ最中であった。 ![]() ![]() 帰りは来た道を戻り、商工会議所前にある天主教会堂跡の看板に見入って終わる。 次編では、しろあと歴史館にあった京街道の旧宿場を歩いてみようと思う。 注:当ページの情報は、潟[ンリン「大阪のあるきかた」を参照に、当サイトにて関連情報を付加したものです。 |
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